初心者症候群【小説再掲】(4000文字程度)
1年続けたバイトを辞めた。
それは別段、特別なことじゃない。
僕の人生ではよくあることだ。
僕の人生のありふれた一項目だ。
僕の人生において、何かを継続出来たことなどない。一度たりともない。
偏屈な反対意見を想定すれば、僕が継続出来たのはせいぜい生命活動ぐらいのものだ。
むしろ、1年続けられたのはよく出来た方だと思う。
僕は人の上に立ちたくない。
そう言ってしまうと、すっぱいブドウの話のように、無い物ねだりだと笑われてしまうだろう。
出世する力量もないから、虚勢を張っているのだと。
しかしーーそれとは少し、意味合いが違う。
バイトを辞めた理由は単純だ。
新人が入ってきたからだ。
後輩が出来たからだ。
僕は物理的に、人の上に立ってしまった。
恐れていた事態がやってきた。
新人がやってきたということは、1年同じ作業を続けてきた僕は、必然的に教える側に回らなければいけない。
先輩として、新人の教育を丁寧にしなければいけないのに、頭を使うのが下手なせいで、説明が思うように出来ない。苦痛だった。
論理的に話を組み立てるなんて、僕には出来ない。
僕のたどたどしい口調の説明を聞く後輩の怪訝そうな顔が、さらに僕を追い詰める。
そんな時、僕の心は言い様のないストレスで、黒く蝕まれてゆく。
ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと。
半紙に墨汁が染み込むかのように。
全身が強張り、萎縮し、パフォーマンスが半減する。
僕にとって、『経験者なのだからこれぐらい出来て当然』という期待が、気持ち悪くてしょうがなかった。
マニュアルに従っていれば特に問題もない、僕個人の創造性など皆無な仕事を選んでしてきた。
仕事が始まれば、身体が勝手に動く。
考える必要もない。
僕は頭を使うのが下手で、考えることが嫌いなのだ。
でも、それでよかった。
『初心者だから』『経験が浅いから』で済んだから。
自分が初心者なら、下手に出ることが出来る。『すいません』と一言言えば、難を逃れることが出来る。
僕は自分を下に置くことで責任を逃れ、安寧に浸ることで生きてきた。
責任を負いたくない。思考停止で錆び付いた頭を、今更再起動させることも億劫でしかない。
だから僕は、バイトを辞めた。
次のバイトを探して、もう一度初心者になればいい。
一生そうやって生きていけばいいーーそんなことさえ、本気で考えていた。
しかし、そう言い続けてもいられないのが現実だ。
実家で共に暮らす両親から「いい歳して恥ずかしくないのか」と真剣な口調で言われた。
同じ仕事を1年以上継続することも出来ず、『次は』『次こそは』と言い訳を重ねる僕に、堪忍袋の緒が切れたようだ。
確かに世間的には、いつまでもフラフラするなと言われても仕方がない年齢だ。
僕は出来るだけ申し訳なさそうな顔で、さらに言い訳を重ねてその場を乗り切る。
しかし、僕は今までの生き方を捨てるつもりはなかった。
捨てる勇気は無かった。
ここで前向きになれるようなら、そもそもこんな性格にはなっていないだろう。
僕は打開策を考える。
世間に批判されることなく、自分を曲げる必要もない、そんな方法を。
そして僕は、思い至る。
そうだーーこの手があった。
「人生の初心者になればいい」
◯
そうして僕は、ここに立っている。
夕方、廃ビルの屋上。
朽ちるのを待つだけと言った様相で、セキュリティなどあったものではない。侵入することは容易かった。
今日僕は、ここから飛んで死ぬ。
そして生まれ変わって、もう一度人間の初心者としてやり直すのだ。
安全のため設置されたフェンスに手を掛ける。
それはとてもチープな造りで、乗り越えるのは安易だろう。
そんなことを考えながらフェンスに足を掛けたーーその時だった。
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜!!だめぇ〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
屋上へと続く重厚な扉の音が聞こえたと思ったが最後、何者かが僕の身体に手を回し、力づくで引きはがした。その勢いで、僕はコンクリートの地面に叩き付けられる。
そこに、その何者かが倒れ込んできて、さらにダメージを負った。
自殺直前で助けが現れるという物語じみた展開に戸惑いながらも、僕はその何者かの顔を確認する。僕よりもいくつか若そうな、かわいらしい小柄な女の子。
経緯は分からないが、涙ながらに、自ら命を絶とうとした愚かな僕に、説教でもしてくれるのだろうか。
息を荒らげたその女の子が、僕に覆いかぶさったまま、顔をぐいと近付けて言った。
「ここは私が最初に見つけた自殺場所です!勝手に使わないでください!私が最初です!」
その一言に、僕の顔は引きつる。
予想外の角度。
「聞こえました?私が先です。今日、この時間に飛び降りるって、綿密な計画を立てて、決心してきたんですから!邪魔しないでください!誰かが飛び降りた後なんて、気持ち悪くて使えません!!」
……自殺を止められるとは急展開だなあ、と思ったのも束の間、どうやら彼女は、僕と同じ種類の人だったらしい。
混乱する頭の中で、そのことだけは理解出来た。
下手な使い方しか出来なかった頭でも、そのことだけは。
だが__しかし。
理解は出来たが、共感はない。
僕は誰が先に飛び降りたところで、「誰かが飛び降りた後なんて気持ち悪い」とは思えない。
僕は死ねればいいのだ。誰の後だって。
「……じゃあ、お先にどうぞ」
僕がそう勧めることで、死に前向きな彼女はすぐさまこの廃ビルの屋上から飛び立つだろうーーそう思った。
しかし現実は、その通りにはならなかった。
「……あなた、よく見たらめちゃくちゃ良い顔してますね」
「……は?」
「どちゃくそ好みの顔です」
彼女はなおも僕に覆い被さったまま、僕の顔をねめつけるように見る。
僕の引きつった頬を撫で、ほっぺをつまんだ。
「自殺プランは雲散霧消しました。こんなに好みの顔の人と出会えるなら、私は明日も生きることが出来ます」
他人の自殺を止められるような顔面をしていたら、そもそも僕は幼少期から好かれて、明るい性格に形成されて、こんなことにならなかったことだろう。整った顔の奴には整った顔の奴なりの悩みもあるというが、少なくとも僕の顔が整っているという事実は、一度たりとも認識したことがなかった。
「……君、大丈夫?ちゃんと目ぇ見えてる?街で石を投げれば、僕より顔の良い人に当たる確率の方が抜群に高いと思うけど」
「世間の価値基準など知りません。私は、あなたの顔が、生きる希望となる程にどうしようもなく、タイプなんです」
まさか、自殺を止められるどころかーー僕が自殺を止めるなんて。
何と言う皮肉だ。
「……いや。そうだとしても、どのみち僕は死ぬ。ここから飛び降りて死ぬんだ。君の生きる希望となったところで、僕はもうここに留まることはない」
「それなら私も、後を追います!」
「誰かの後じゃ、嫌なんじゃなかったのかよ」
「あなたの後なら、喜んで着いていきます!」
本当に自殺を考えていたのか疑わしくなるほど明朗な彼女の言葉を、僕は一瞬、聞き流しそうになった。
自殺を止められるわけではないなら、僕はさっさと飛び降りれば良い。
さっさとやり直せばいい。
そうしてまた、初心者に。
しかしーー僕は引っ掛かりを覚える。
先ほどの、彼女の言葉を反芻する。
『それなら私も、後を追います!』
それは。
それは困る。
だって、それじゃあ。
「僕がーー君の先輩になってしまうじゃないか!」
あっという間に、君の上に立ってしまうじゃないか!
「……はい?」
『人は毎日どこかで死んでいるのだから、後輩なんてすぐ出来るのではないか』という指摘を、しかし僕は許容しない。どこかで誰が死んだところで、僕はその人のことを知らないからだ。
想像の余地もないからだ。
僕とは関係ない別の職場に入った新人のことは、僕の後輩とは呼ばない。
しかし、しかしだ。
僕が今ここで死ねば、彼女が後を追って来てしまう。
その事実が確定してしまう。
これはもうーー僕の後輩と言ってしまって問題ないだろう。
人の上に立ちたくないのに、人の上に立ってしまう。
死んでからもそんなものに囚われるなんて。
「先輩……って、何がですか?」
彼女が不思議そうな顔をして、僕の顔を覗き込む。瞳が大きくて、意外と端正な顔立ちをしているーーなんて考えてる場合じゃない。
「君が先に行ってよ」
「無理です!私が先に飛び降りて、あなたがついてきてくれる保証はないじゃないですか!どのみちあなたより先に死にたくありません!生きる希望がそこにあるのに、みすみす死んでたまるものですか!」
「じゃあ、僕が先に行くから、君はここ以外のどこかでひっそりと死んでくれよ」
「嫌です!あなたが私の、唯一の希望なんです!それが損なわれてしまったのであれば、私はもう、この場で死ぬしかありません!」
そんな押し問答が何周か続いた辺りで、疲弊した僕は結論を出す。
この女の子は、僕の思い通りにはならない。
僕が先に死ねば何が何でも着いてくるし、僕より先に死ぬ選択肢もないようだ。
それならーー仕方がない。
ひとまず、延期するしかなさそうだ。
「飛び降りないんですか?じゃあ私の生きる希望として、私と残りの半生を生きてくれるんですね!私と一生歩んでくれるんですね!」
「そんなことは一言も言ってない」
思い込みの激しい彼女は、僕に覆いかぶさったまま、イキイキとした表情でぞっとしない未来予想図を繰り広げる。本当にさっきまで死のうとしてたのか、こいつ。
「あなたと共にどこまでも、地獄にだって着いて行く覚悟ですよ!」
はた迷惑な後輩の恐ろしい発言を受けて、僕の全身の力は抜けた。
人生の初心者になる試みは阻まれてしまったが、とりあえず今日のところは帰ろう。
そしてまた明日から、適当なバイトを見つけて初心者としてしばらく、生きてみよう。
「あなたは私の、生きる希望です!」
元自殺志願者のハキハキとした声が夕日と共に沈んでいくのを、僕はただ、辟易しながら見ていることしか出来なかった。
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※この作品は以前『小説家になろう』上に投稿したものに、若干の修正を加えて再掲したものです。